淡々と記録するよ

数多の星々の中のこの地球にあって

2016-05-27から1日間の記事一覧

議論は「誰々はこう言った」の積み重ねで進んでいくこと

過去の議論を紹介する文章は,理論的な整理という観点から並べてあったりするが,その背後には時間的に順を追って進んできた議論があり,誰がこう言った,それを受けて誰がこう反論した,最高裁がこのような判例を出した,というような流れがある。 また,議…

決断する態度が重要であること

いくら客観的な議論を装おうとしても必ず「あなた」が問われています。これは「法の解釈適用は結局当事者間の利益衡量に理屈を付けただけである」というような立場をとる場合でなくてもそうだと思います。 これに伴って,学習者としては,独特な頭の働かせ方…

行動すること,書くこと,教えることについて

物事を前に進めていくこと(行動),文章にまとめること(書くこと),人に教えること。そもそも何をするのか,書くのか,教えるのかということについては,事前によく考えなければ,混乱や失敗につながりうるが,逆にいつまでも考え続けていて何もできない…

設例をもとに議論することについて

現実世界における法律の解釈適用は,実際に起こった出来事としての事件を事実認定の作業によって拾い上げてそこに法律を適用するわけだが,あくまでも法律の適用対象は現実の事件である。これに対して,試験問題やロースクールの授業で使われる架空設例には…

理由について

人は普通,理由を言う義務を負っていない。理由を言わなければならない場面というのは例外的である。

責任を持つことについて

世界のある一部について,完璧でなくとも、他の人にやらせておくよりは,自分が引き受けたいと思うこと。

議論の拠って立つ枠組みを明示することについて

法律論の場合,議論は条文を適用するという形で行われなければならないという制約が既にかかっているわけである。そこにさらに特定の方法論を持ち込んで云々する必要はあるのかどうか。 なぜ人は方法論をめぐる議論に熱中してしまうのだろうか?

「条文から始める」

法的議論の本質は条文解釈にあるのではない。法的議論とは望ましいルールとその適用についての議論であり,条文解釈は日本(大陸法系国?)において法律論が最終的にとるべき議論形式を指示しているに過ぎない。 学習上のアドバイスとして「論点に飛びつくな…

イワン・イリイチの死

社会から与えらえた役割を果たそうとして,自分本来の人間性を押し潰してしまい,そこからいろいろ問題が出てくる,という可能性はどんな仕事をしようとも多かれ少なかれあるのだと思います。 しかし法曹という職業には,社会規範が一人の人間に憑依して口か…

教員による試験対策について

試験というのは教員の側が省力して学生の力を測るための手段なのだから,その内実を暴くことを当の教員に期待するのは,教員が自分の仕事道具を自らの手でぶち壊すことを期待することであって,不可能というものである。

このブログの基本方針

法科大学院制度が始まって以来,制度として成功しているか否かはさておき,初歩~司法試験レベルの法学教育に対する関心が高まり,数多の学習書が出版されるようになったり新興の教育サービスが生まれたりしていることは周知の通り。 しかし,いくら教育方法…

どの説をとるか?

基本書を見ていると勘違いするが,法解釈は理由付け数個程度のディベートで決まるものではない。だから学生が議論に参加した気になって答案上で通説やら有力説やらに反対して「より良い解釈論」を提示することは滑稽なことである。

判例学習について

一口に判例といっても色々なタイプのものがあるので注意する。 一般的な傾向として,昔のものほど基本的で,最近のものほど細かくなる。

基本書の読み方について

基本書の中には必ず,読み手にとって必要ない部分がある。基本書は色々な役割を持っているからである。学界の議論をまとめること,実務家の仕事の役に立つ情報をまとめること,学生が教科書として使うことなど。昨今は受験生向け教科書のような性格を前面に…